わかりやすい日本語教育
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日本語指導とピアノ指導の違いについて charls

みなさんおはようございます。日本語教師のcharlsです。

昨年からのコロナ禍によって、ずっと対面形式の授業をしていた日本語教師が、オンライン形式の授業に興味を持ったきっかけや、実際にやってみて感じたことを話して行こうと思います。また、自身の経験から日本語教師の働き方や教育方法、心構えなど日本語教育に関する自身の気づきを伝えていこうと思います。日本語教師として働いている人や、ボランティアで日本語を教えている人。そしてこれから日本語教師を目指そうと思っている人にとって、日本語教育を考えるきっかけになればと思います。

今日は私がピアノを学んだ経験から、日本語教育とピアノ教育の比較について話していきます。日本語とピアノという違うジャンルの2つですが、教育という観点から見ると通じることがあります。また、ピアノ教育から日本語教育に応用できる考え方があるのではないかと思っています。今日は違ったジャンルの教育から、日本語教師として新しい発見があるということをみなさんにお伝えしたいと思います。

是非最後までご覧ください。

日本語教師になろうと思ったきっかけ

前回、日本語教師の特徴や待遇、イメージについて綴りましたが、日本語教師になる前に「先生」という職業に憧れがありました。
それはピアノ講師という分野ですが、その理由は単純で、元々音楽が好きでピアノが好きで、その楽しさを教えたいという真っ直ぐな気持ちでした。
ただ、先生という職業に哀れな気持ちも少しあって、小学校から大学の間に多くの先生たちと出会ってきましたが、誰一人、名前や授業内容のことを覚えていないくらい印象が薄かったのです。
そんな中、時々は面白い先生がいて、授業内容等は大して覚えていないのですが、その先生自体が面白かった印象がありました。結局、先生という存在は真面目で熱心に授業を教えたからといっても、学生の印象に残っていなければ無に等しい存在なんだと勝手に哀れに感じていたのです。
以前、私がサービス業を辞めて転職しようと決めた時、日本語教師という職業を初めて知り、最初は日本人なら誰でもなれるだろうと高を括って養成講座に申込みしたことを覚えています。しかし、実際には頭を抱えるくらい難しい仕事で、登壇することへの不安と恐怖に当初悩まされていました。
だからこそ、自分が日本語教師として仕事を続ける以上、真面目で熱心に日本語を教えたいという教師ではなく、面白くて印象に残る教師でありたいという信念で、今も教師を続けています。
結局、学生から教師への評価というのは、内容よりも印象なんです。

 

ピアノ教育の現状

日本語教師とは別に、現代のピアノ講師はというと、音大卒でピアノのバイエル(初心者用の楽譜教材)から指導するという古典的な指導方法を、こんな時代になっても尚、続けています。
バイエルの指導は楽譜が全ての教授法で、音符ごとに指番号が指定されており、決められた指の位置で正確に演奏する必要があります。練習させられる旋律もまた、興味のない簡単なメロディーを何度も何度も繰り返し練習します。
ピアノ教育は幼い頃から指導した方がいいとのことで、幼稚園や小学校の時に、両親にピアノを買ってもらってピアノを習う人も少なくないですが、多くの子どもたちは結局の所、嫌になって辞めてしまったという話をよく耳にします。
その原因は明白で、義務的で面白くない「させられる教育」だからです。元々ピアノという楽器は楽しいはずなのに、ピアノ教育はというと古典的なルールに基づいて、子どもたちに日々の積み重ねが必要だからと表向きに謳って、つまらない練習を強いて精神的に追い込むんです。
子どもたちは高いピアノを買ってもらったからとか両親の期待を裏切れないとか、両親に反発することなく空気を読んでは心の中で泣きながら練習を続けるんです。

 

古典的ではない、ピアノ教育とは

結局、多くの子どもたちは、させられていただけのピアノを辞め、そこからピアノの印象は奇しくも、ただの苦手で辛かったイメージの楽器として淘汰されます。
私の場合は高校の時から独学でピアノを勉強して、音楽専攻の学校にも通いましたが、当時も今も楽しみながらピアノを演奏できています。
その時に練習していた方法は古典的な練習方法ではなく、シンプルで理解しやすい音楽理論を覚えることから始めました。基本的なコードやスケールを覚えて、左手の伴奏部分をスムーズに弾けるようにと、いくつかのコード進行のパターンを覚えました。そして、自分が好きな歌だけを弾きたい一心で練習を続けてきた結果、気づけば多くの歌が演奏できるようになりました。
他のピアノ演奏者たちと同様、自信を持ってピアノを弾けるけど、他の演奏者たちと比べて、楽譜は読めないし、鍵盤を押さえる指も適当ですが、自由気ままに演奏ができるので、私にとっては何の不自由もありません。
そのおかげで、いつしか誰にも真似できない特技にもなったし、相対音感というスキルまで身につきました。知らない歌でも音を探せば演奏できるようにもなり、自由に作曲ができるようにもなりました。

 

日本語指導に求められるもの

日本語教育とピアノ教育と比べて思うのは、何れにしても「させられる教育」になっていけないということです。
日本語は言語である以上、語彙や文法というものはむやみやたらに叩き込んでいくものではなく、場面や状況に応じた言葉をまずは知り理解し、その中に必要な語彙文法を少しずつ覚えていけばいいと思います。
何十といった何百といった言葉を最初から丸暗記するといった古典的な教育でなく、専門的に言えば「場面シラバス」を通じた教育の方が理解も早く楽しみながら学べると思うのです。
私自身も最近中国語を勉強しているのですが、外国語を勉強していて思うのです。言語教育は、常に孤独の中での戦いです。
言語到達の目標にもよりますが、試験に合格したいとか研究したいとか会話練習したいとかある中で、共通しているのは理解しやすく楽しめるかどうかであることです。言語は言葉である以上、常に変化し生きているものなので、知識でいうと無限なまでの教育です。
日本語教育においても、学生の立場を十分考慮して「させられる教育」にならないように指導することが大切です。最近では「教えない教育」や「協働学習」という新しい教授法もあるくらい、指導方法は日々進化しています。

 

 

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