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国語教育と日本語教育の違い charls

みなさんこんにちは。日本語教師のcharlsです。

昨年からのコロナ禍によって、ずっと対面形式の授業をしていた日本語教師が、オンライン形式の授業に興味を持ったきっかけや、実際にやってみて感じたことを話して行こうと思います。また、自身の経験から日本語教師の働き方や教育方法、心構えなど日本語教育に関する自身の気づきを伝えていこうと思います。日本語教師として働いている人や、ボランティアで日本語を教えている人。そしてこれから日本語教師を目指そうと思っている人にとって、日本語教育を考えるきっかけになればと思います。

今日は日本語教師をしているとよく聞かれる「日本語教師」と「国語教師」の違いについて紹介したいと思います。日本人のみなさんは、日本語教師がどうやって留学生に日本語を教えているのかを知らない方がほとんどです。日本語を話せる日本人なら誰でも教えることができるのか、英語や中国語、スペイン語といった外国語ができないと教えられないのか、それとも日本語教師特有の技術があるのかなど紹介していきます。特に日本語教育に興味を持っている方や、日本語教師になってみたい方におススメの内容です。

是非最後までご覧ください。

 

私たちが知る、一般的な教師像

フィクションの世界では「金八先生」や「GTO」など、映画やドラマで描かれてきた教師という存在は実際の教師と違い、熱血漢溢れる性格で、どこか破天荒でポリシーを貫いていて、指導する姿勢や意識がはっきりしています。そのような背景から、教師は存在自体がカッコよくて憧れる職業に思われがちですが、実際は大変な職業だと思います
私は日本語教師であることから学校教育とは別の種類の教師なので、正直憶測でしか分からないですが、小学校や中学校、高校や大学といった分野での教師という存在は、いち教育者として日々の仕事を全うしているのでしょうか。
あくまで私のイメージですが、大学の教授はさておき、小中高の教師は、学生の勉強面だけを考えて仕事をこなしているわけではなく、学生の生活面や悩み事、両親の存在や進路指導というように、扱う題材があまりに多くあると思うのです。クラスの中にいる学生が20人だとしたら、当然ながら20通りの学生がいて、優秀な学生や不真面目な学生、大人しい学生や落ち着きがない学生など、無数のタイプの学生が存在しています。

 

日本語教師だからこそ成せる技

クラス内の人数という所では、日本語学校でも同様です。
ただ、学生が多国籍であっても、クラスの決め方は国籍別でなく、一般的に日本語能力レベル別でクラス分けをします。そこは単純な理由で、国籍で決めてしまうと、何かある度に母国語で話してしまうことになるし、そもそも日本に留学した意味がありません。
色々な国籍の人がクラスに存在することで、共通語である日本語で会話する環境が大切なのです。それは初級日本語の学生であっても、そのような環境で指導することで、日本語の聴解力や会話力が自然と身につきます。
母国での日本語指導は、母国語で日本語を教える間接法が多いと思いますが、日本の日本語学校では、日本語で日本語を教える直接法が一般的です。
「あいうえお」くらいしかできない学生に、どうやって日本語で日本語を教えるんですか?という質問が当然のように飛んできそうですが、日本語で日本語が指導できる人こそが、ズバリ日本語教師の役割なのです。
何となく英語で教えるものだと思っていた、という意見も数多く聞いてきましたが、初級日本語を指導する日本語教師は「語彙コントロール」という特殊スキルを使って、初級学生に初級日本語を教えています。

 

丁寧体と普通体といった考え方

語彙コントロール」というのは、初級学生が今まで勉強してきた日本語の言葉(語彙)を用いて、教師が語彙をコントロールしながら授業を進めていく手法です。
語彙や文法といったものは、授業毎に積み上げ式に教えていきます。単に語彙や文法といっても色々な種類がありますが、名詞、動詞、形容詞、副詞、助詞、疑問詞といった国語教育のようなものです。しかし、日本語教育というのは私たちが小中学校等で学んできた国語教育とは違い、初級学生でも丁寧な会話が作れるように「です/ます」といったような丁寧文を優先的に教える特別な教育法です。
日本語教育は国語教育と何が違うの?という疑問も当然に感じるかと思いますが、国語教育では専門的な分野として日本語知識を学んでいく反面、日本語教育では場面や状況を設けて、日常的な使い分けをカテゴリー別に指導していきます。
日本語文章を組み立てる上で必要な文法を、大きく二つに区別します。「です/ます」の丁寧体と、それ以外を普通体として区別し、初級日本語では丁寧体を集中的に教えていきます。それは、学生たちが日本社会に出ても、日本語として失礼にならないように配慮された工夫が施されているのです。

 

「鈴木先生」から学んだこと

冒頭でもお伝えしたように、映画やドラマといった設定の中では様々な教師像が描かれていますが、私がこれまで最も感銘を受けたのは「鈴木先生」というTVドラマ作品です。
漫画を原作として、ドラマや映画にまで発展していった知る人ぞ知る作品ですが、初めてドラマを観たのが日本語教師になる前だったことから、今作品の影響をもろに受けた結果、教師という職業に強い憧れを持ちました。
主人公である鈴木先生は、中学校を舞台に多くの問題に直面していくわけですが、中でも考えさせられたのは20人のクラス構成の内容です。
クラス分けを考える際に考慮されるのは単に成績面だけでなく、人間関係や性格面を重視して決めているのですが、クラス構成で大事なのは優秀な学生や不真面目な学生といった複数のタイプを、あえて均等に配置させているということです。
クラスとして何よりバランスが大切といっても、偏りのない配置にすること自体難しいことだと思います。学生の人間関係や性格面は数値で測れない分、教師の主観が大きく影響します。
そんな状況の中、クラス編成が終わり、いざ蓋を開けてみると、問題児や不真面目な学生が少なからずいることで、20人の学生の中でも常に目を光らせておく必要があるように思いますが、鈴木先生の視点はそうではないのです。
問題児や不真面目な学生には何らかの原因があって素行が悪い状態が続いているわけですが、態度や主張がはっきりしている分、対処や指導の方法が比較的分かりやすい特徴もあります。
だからこそ、優秀な学生や普通の学生に対しては「今後も問題を起こさないから大丈夫だろう」という先入観の元、問題児や不真面目な学生に対して、教師は重点的に対応していく必要があります。しかし、優秀な学生や普通の学生に常日頃、問題がないわけではありません。問題があっても口にすることができない学生も多く、全ての学生に少なからずのストレスや悩みといったものがある以上、定期的な心のケアが必要です。
鈴木先生の理念は、悪い学生だから指導すべきとか、問題ない学生だから放置しておこうとか、クラスの学生を先入観で判断し指導するのではなく、常に全員フラットの意識で指導しているのです。
だからこそ学生全員からの信頼が自然に生まれ、尊敬される教師として崇められています。とはいえ、鈴木先生自体が真面目だけの性格でもないので、残念な性格もまた人間味があって、作品全体が感慨深くも面白い内容になっています。

 

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