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日本語教師ゆえの日本語教師批判 charls

みなさんこんにちは。日本語教師のcharlsです。

昨年からのコロナ禍によって、ずっと対面形式の授業をしていた日本語教師が、オンライン形式の授業に興味を持ったきっかけや、実際にやってみて感じたことを話して行こうと思います。また、自身の経験から日本語教師の働き方や教育方法、心構えなど日本語教育に関する自身の気づきを伝えていこうと思います。日本語教師として働いている人や、ボランティアで日本語を教えている人。そしてこれから日本語教師を目指そうと思っている人にとって、日本語教育を考えるきっかけになればと思います。

今日は【日本語教師ゆえの日本語教師批判】というテーマで、日本語教師という立場だからこそ感じる、同業である日本語教師のみなさんに思っていることを話していこうと思います。今回は日本語教師を目指す人には、少々ネガティブなこともありますが、日本語教育業界のことを知るきっかけになればと思います。

是非最後までご覧ください。

 

 

日本語教師としての弁え

日本語教育業界に浸かってみて思うものや感じるものというのは、社会的地位の低さや知名度の低さに絶望する分、対価や報酬にも期待以上に満足できない所です。
しかし、これらの現状はYahoo検索で「日本語教師」と検索すると「やめたほうがいい」と出てくるので、今更足掻いても仕方ないのです。
そんな状況でも続けたい気持ちの中には、世直しを込めたものや、学生のためというようなボランティア精神やサービス精神かもしれません。つまり、そう思って仕事を続けている間は、稼ぎや儲けというような欲は捨てなければいけないということです。
日本語教師の社会的価値を高めようと、日本語教育に関する会社を起業したり、オンライン講師として知名度を上げるべく有名になろうとしたり、工夫し努力し奮起している日本語教師が最近増えてきましたが、どうして日本語教師は他の種類の教師と比べて、そこまでのことをしてまで頑張らないといけないのでしょうか。
「職業的に底辺だから?頑張り以上に周りから認められないから?」どんな理由だとしても、そこには情けないくらいの虚しさを感じてしまいます。
「今の日本語教師って立場は、本当にダメですか?そんなに社会的地位が低いですか?そんなに待遇が低いですか?」
私は日本語教師歴六年目になりますが、そういう話やそのような思いを周りから聞く度に切ない気持ちになります。その理由は「今の自分が日本語教師である」という立場に感謝しかないからです。

 

日本語教師に求めるもの

この業界に入る前は、正直誰でもなれると思っていました。資格取得も難しくないし、様々な教師の中でも一番なりやすいとさえ感じていました。今でこそ変わりましたが、年齢制限も学歴も当時のルールは縛りがなかったのです。
この業界に入ってみて思うのは、日本語教師を辞めてしまう気持ちに答えがあると思っています。日本語教師を辞めていく先輩や同僚の方々に共通していることがいくつかありますが、一つは待遇の悪さ、一つは勤務時間の対価、一つは人間関係です。
最後の人間関係に関しては意外に思われるかもしれませんが、日本語教師という職業が個人事業主であることが多いからです。つまり、誰かと一緒にチームとして仕事するわけでなく、一人で全て抱えて授業をするスタイルだから周りとの歩調は必要ないと感じる人もいるかもしれません。
ここでいう人間関係というのは横の繋がりというより、上下関係です非常勤と常勤の関係だったり、アルバイトと社員の関係の場合です。端から見れば同じ教師であっても教師の思いは人それぞれで、授業や学生と一言でいっても、その一つに対して深く追求してしまうものです。自分の思想と相手の思想が違えば共感できないということになり、職場の雰囲気は悪くなります。
待遇の悪さと勤務時間の対価に関しては、最低賃金に文句を言うアルバイトの気持ちと同様であり、サービス残業に文句を言う社員と同じ考えです。教師だからといって特別に優遇されることもないし、個人事情主だからこそ対価はシビアに支払われます。学生に対して素晴らしい授業をしたとしても、つまらない授業をしたとしても報酬という対価は同じなわけです。
教師という仕事に慣れてきた頃に、ある程度授業に自信が持て、学生にも喜ばれる授業が続いても尚、報酬や対価が変わらないとなれば、今の職場を出ていくことになるかもしれません。
しかし、私にとってそれは契機だと思います。自身にとっての成長であり、培ってきた経験なのです。今の環境を飛び出し、割の良い環境に移ることが自然の流れであり、それは単なる欲ではなく挑戦なのです。

 

今後の日本語教師とは

今後も日本語教師という立場は当分変わらないかもしれないし、これまで通り細々と過ごしていくしかないかもしれませんが、大切なのは日本語教師としての信念がどうか、ということだと思います。
前述でも挙げたように、待遇や境遇に課題が残る日本語教師という立場ですが、日本語教師という職業が社会的に脚光を浴びて給料が少しでも上がったらいいと思う反面、待遇が良くなったから日本語教師になりたい人が増えてほしいかというと、私はそうは思っていません。
「日本語教師は外国語講師である」という立場でいえば間違いなくそうなのですが、私が感じる日本語教師の仕事は他の業種と比べても、特殊で特異で多様性のある仕事だと思っています。ただ外国人に日本語を教えればいいという考えなら外国語講師でいいわけですが、私が目指す日本語教師はというと、それだけに留まらないのです。
日本語というものはただのツールであって、それを取り巻く働き方に魅力を感じているのです。では、外国語講師という仕事にそこまで求めるのかというとそれは多分違っていて、日本語教師という仕事だけが特殊なのかもしれません。
最近では、多文化共生や外国人労働の見地からも日本語教師のニーズが求められています。日本語教師に求められる人材を一言でいえば、ボランティア精神に満ちた献身的な考え方を持っていて、欲を追求しない人にこそ向いているのではないでしょうか。

 

日本語教師の先にあるもの

日本語教師が生活のために社会のために、どうしてお金を追求して何がいけないのか。それは、欲を追求する考え方であると説明してきました。
日本語学校も日本語関連企業も、教育的見地と経営的見地のバランスが大切なわけですが、日本語教師の思いは様々であっていいし、元々どこにも属さない個人事業の仕事です。日本語教師は、会社に属してチームとして働かなくていい職業であることから、自由気侭に仕事していい職業です。
組織として必要な上記の考え方は上長や経営者に必要なものであって、日本語教師個人でいえば自由に仕事ができるわけです。給与を安定させたいなら何処かに所属する必要があるかもしれませんが、経験があるならフリーランスになればいいと思います。
私自身、今の所はフリーランスに憧れはありませんが、一般的な会社員の末路と比較してみても、組織を飛び出して対価をもらえる職業というのも悪くないと思います。私の信念としても、この仕事を続けていきたい一心ですし、学生に日本語を教えていきたい気持ちです。
ただ、他の日本語教師の方々と違って私が大切にしている点は、日本語教師を職業で見ているのではなく、プライベートと融合させて、その考え方を自身の生き方として思っているということです。
抽象的な説明で理解しがたいかもしれませんが、海外に赴くことなく外国人の方々と出会うことができ、日本語を指導することがきっかけであっても、その後は学生が友人になることもあれば、家族のように慕う存在になることもあります。
人間としての喜びである、万物みな兄弟のような壮大なるコミュニティーが、すぐそばにあるのです。例え近くにいなくても離れていても、心は繋がっていられる。そんな素晴らしい感情に出会えたのは、この仕事を通じて得られた唯一の宝物です。
日頃からお金以上の対価をもらえているからこそ、欲を追求する考え方を批判してしまうのかもしれませんが、日本語教師と学生との繋がりで大切にしているのは金銭というビジネス関係でなく信頼というプライベートな関係です。
例えそのような考え方が批判されたとしても、私は何の悔いもなく今の働き方を追求していきたいと思っています。

 

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